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200倍返しコラム お題『近頃の若者は』『山手線』『ドラえもん』


 見苦しいのである。

 今年も各地から「荒れた」成人式が報告された。僕が成人式を迎えたのは5年前のことだ。去年や今年のような「荒れた」成人式は、少なくともその頃報道されることはなかった。わずか4〜5年でこれだけ変わった成人式事情。まだまだ青二才の若造であることを自覚している僕ですら、「近頃の若者は……」と口に出してしまいたくなる。

 そして、そう、見苦しいのだ。「近頃の若者」っていう人種は。多くの真面目な若者は、この「近頃の若者」という人種には入らない。あくまで批判の対象となるような、少なからず「問題ある」若者を指している。

 さてその人たちだが、何が見苦しいか、というとその甘えん坊ぶり。その甘さは、恋人からまったく予期せぬタイミングで「この間池袋で一緒に歩いてた女は誰?」なんて聞かれたときのリアクションくらいアマアマ。恋人いないけど。更に言うなら甘えん坊な上に唯我独尊。まさに甘えん坊将軍。タチが悪い。

 何が甘いって、「近頃の若者」は権利を主張することは知っていても、義務を果たすことを知らないのだ。20歳になりました、と。煙草を堂々と吸える。酒も堂々と呑める。オトナという枠組に自動的に組み入れられることで、格段に広がる自由。それらを満喫することは出来る。誰でも出来る。しかし、納税、年金、社会的責任、参政、労働。それらの義務に関してはまったく果たそうとしない。いーんじゃねーの、で済まそうとする。それが甘いっていうんだ。

 20歳になることに限らないが、成長するってことは、自動的に責任が増えていくのだ。「そんなこと言われたって好きで成長してるわけじゃないし、社会が勝手に決めた責任と枠組みだろう」というなら、そんなヤツはさっさと日本という枠組から出ていってほしい。結局この世界でもっとも恵まれた部類に入るモノ溢れる社会に寄生しておきながら、その社会の規制には従おうとしない。そんな都合の良い話しがあるわけ無い。果たすべき義務を果たさず、取るべき責任を取れないヤツは、その枠組から進んで出ていってほしい。誰も止めない。自分の考える枠組の通用する社会で生きていけばいい。世界中、どこにも無いだろうけど。

 山手線病、と言われる現代病がある。というか今作った。もしかしたら本当にあるのかもしれないけどとにかく作った。どんなものかと言うと、やることが無くてずっと山手線に乗ってグルグルしているように、特に目的も無いまま無為に日々を過ごすことだ。モラトリアム、に近いかもしれない。モラトリアムと大きく違う点は、とりあえずレールに乗るところまでは行くことだ。だが、一度安住してしまうと、そこから乗り換えようとはしない。別に安定が悪いわけではない。ただ、若者が安定してしまうことで、社会は停滞し、発展も乏しくなり、閉塞感が満ち溢れる。

 枠組から外れようとすることを批判していたくせに、今度は枠にはまっていることを批判するのか?と言われるかもしれないが、僕が言いたいのは、枠組を外れるべきところで外れず、外れるべきで無いところで外れていることへの批判だ。何故か。簡単なことだ。それが自分一人にとって楽な道だからだ。山手線から乗り換える勇気はないくせに、山手線の中で馬鹿騒ぎすることは出来るのだ。これがアマちゃんだ、ってこと。グルグル回りつづける枠の中で人に迷惑をかけながら暮らすことは出来るのに、そこからどこへ行くか分からない線へ飛び出すことは出来ない。ぬるま湯の中で生きていきたい。そんな覚悟の無いことで20歳を迎えてしまっているのは、その当人にとっても社会にとっても大きなマイナスだ。

 でまた、オトナたちがまったく宛てにならない。荒れる成人式の報道を聞いて、「近頃の若者はマナーがなってないね」「教育が悪いんだよ」「しつけがなってないからだ」などとしたり顔でコメントしてたりする。その子供たちを育てたのは誰なんだつーの。その教育の最大の責任がある家庭はどうなっているんだってーの。街中で迷惑をかける他所の子供を叱れないヤツが何を言ってるのかってーの。社会全体が責任を取るべき「増長する若者」を育ててしまった、その個別の原因であるオトナたち。何しろ信用できない。自分たちの責任を全く自覚していないのだから。

 確かにその意味では、「近頃の若者」という人種は、社会の生み出した被害者と言えるのかもしれない。だが、「近頃の若者」が、ひとりひとり意思を持った人間である以上、なんといっても最終的な責任は自分が取らなくてはならない。社会が悪いんだ、なんてのは責任転嫁以外の何物でもないからだ。世の中ってのは、個人個人であろうと、組織対組織であろうと、そして異なる世代であろうと、お互いの足りない部分を補完し合うことで成り立っているはずなのに、今じゃお互いに敬遠し、強調しあおうとせず、あいつのほうが悪いんだ、と罵り合うばかり。やっぱりどうみても、社会は相互離別の方向に向かっているような気がしてならない。悪い意味での個人主義だ。

 僕が「ドラえもん症候群」と呼んでいる症状がある。これは山手線病と違い前々から考え、言っていることなのだが、いつか自分の元にドラえもんが来てくれて、その秘密道具を使って楽に生きていける、という願望だ。これは、いつか宝くじが当たると思ってロクな目的も無くフリーターをだらだら続けることにも当てはまる。競馬で大金が当たる、大金持ちと結婚する。などなど。要は、楽して世の中生きていく、という人たちだ。いつか自分は、急に金持ちや物持ちになって楽に生きていける、そんな幻想を本気で信じている人たちのことだ。ちゃんちゃらおかしい。確かに世の中には、そんな人もいるだろう。だがそんなのは、全体の0.1%にも満たない人たちだ。その極小数を除いて、金持ち物持ちになる人とは、ほとんどが皆、血の滲むような努力をしてきたのだ。その華やかな部分だけに憧れて、その裏にある厳しい部分を見ようとしないのは、まさに現実感覚の麻痺としか言えないだろう。

 このように、「常識」を解くと、必ず「でも自分は違う」と言いたがる人が必ずいる。この、自分だけは特別だ、という思い込みはもっとも危険だ。幻想を飛び越えて、妄想が入っている。世の中に例外は極小数しかない。楽をして生きていきたい、という需要に比べて、その供給ははるかに少ないのである。コツコツ地道に暮らしていけ、なんて言う気は無い。別に、一発逆転をかけた人生だって構わないだろう。ただ、枠組に寄生しながら自分を特別視する危険性だけはなんとしても説いておきたい。華やかであろうが地味であろうが、そこに努力という要素は存在するのだ。

 山手線は時間が来れば車庫に入ってしまうし、いつまで待ってもドラえもんはやってこない。そんな当たり前のことすら、近頃の若者の麻痺してしまった現実感覚ではわからないのだろうか。

(以上、全文2800文字÷テーマ「近頃の若者は」+「山手線」+「ドラえもん」全部で14文字で200倍返し!)


<2002年1月17日 ともさく>

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