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Section 3-2 人が人を裁くとき

 2001年6月12日、政府の司法制度改革審議会が意見書を提出した。『わかりやすい司法』『利用しやすい司法』を求めているこの意見書が、相変わらずの難解な政府的用語用法で書かれているのは出来の悪いジョークだが、それでも、見るべきところは多い。
 いちお、記しておくけど、全文はとてつもなく長いので、ワシは抜粋の方だけしか読んでません。悪しからず・・・・・・。

 さて、今回の司法制度改革の、重要なのは以下の3点だ。

(1)訴訟手続の簡素化
(2)法曹人口の充実
(3)裁判員制

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(1)訴訟手続の簡素化

 まぁ、要は民事訴訟を起こしやすくしましょう、ってことだよな。現行の制度だと、弁護士費用や裁判所に払う費用もかなりの額だし、しかも数年に渡って裁判が続くことも珍しくない。こないだから始まった2chの裁判ですら、三ヶ月くらい経つのに全然進んでいない状態という(笑)。費用的にも日数的にも、一般人が民事訴訟を起こすのはなかなか困難だ。
 一日で結審し、費用も書類代だけで済む小額訴訟ならまだ良いが、逆にそれ以上の額の係争、つまり90万円以上の係争だと、費用も日数も、そして疲労も積み重なるってことだ。

 訴訟がしやすくなる、ってことは、泣き寝入りしていた場面が裁判でケリをつけられるようになる、ってことだ。

 日本の司法は、二割司法と呼ばれている。これはいろいろな意味を含んでいるが、『裁判所が、本来の司法の機能の二割程度しか活躍していない』とか『本来必要な法曹人口の二割程度しか、実際の法曹人口がいない』とかの他に、『実際の問題に対して起こる訴訟の数が二割』ということだ。つまり、実際に起こされている訴訟の五倍は、訴訟の必要な係争がある、ってことだ。これら、隠れた係争が、きちんとした司法の場で解決されるようになる、それが訴訟手続の簡素化ってことだ。

 この、簡素化の問題点として必ず言われるのは、『アメリカのような訴訟大国になるのではないか』ってこと。ついこないだも、テメエで煙草を吸って健康を害したくせに、それは煙草会社が警告しなかったからだ、と逆ギレして、30億ドル(3600億円)の賠償金判決を引き出した馬鹿なおっさんがいたが、これは、アメリカが陪審員制度を取り入れているからともいえる。日本も裁判に一般人を参加させようという動きになっているが(後述の裁判員制を参照)、これは制度的に陪審員制ほどひどくないので、ここまでお馬鹿な判決はでないだろう(ちなみに、判決を受けた被告のフィリップモリス社は上告。そりゃそうだ)。
 そして、それ以上に日本の風土として『争いを好まない』というのがある。それは、美点でもあり欠点でもあるんだけど、少なくとも当面は、訴訟大国といわれるほどの惨状を目にすることはないだろう。ただし、日本の文化、風土、社会が欧米化、もっというならアメリカ化しつつある現状では、長期的に見て訴訟大国化が無い、とも言い切れんよなぁ。。。

 あと、訴訟の簡素化には刑事裁判の短縮も含まれてるんだけど、まぁ、これはそのままだからね。例えばオウム真理教の麻原の裁判は、いまだに地裁レベルで係争中で、いくつもの罪状のうち、たった一つの事件についても判決は出ていない。同じ年にアメリカで起こった、オクラホマシティ連邦政府ビルの爆破事件では、つい数日前に犯人が刑の執行を受けた、というのに。これは、弁護団の『牛歩戦術』に因るところなんだけど、こんな遅々として進まぬ裁判のやり方は問題だ。遅々としているのに且つ、冤罪が存在していることを考えるなら、日本の刑事裁判が遅いのは、慎重なのではなく怠慢であると言い切ってしまいたくなる。

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(2)法曹人口の充実
 これは、裁判官はもちろん、検察官、弁護士など、司法に関わる人間の数を増やしましょう、ということだ。具体的には、司法試験の合格者を増やし、また、能力のある人間を市井より求め、司法に関わる人間を、質、量ともに充実させよう、ということだ。

 前項で『二割司法』という言葉を出したが、日本の法曹でもっとも問題と言えるのが、本来必要な人数の二割しかいないと言われている、この法曹人口の少なさだ。

 裁判官が少なければ、一人一人が抱える案件は膨大なものになり、一つ一つの問題を吟味し、適切な判決を出すことが難しくなり、法例踏襲主義になりやすい。現実に、日本の裁判官は常時数十から数百の案件を抱えている。これは、裁判の進むスピードが遅いことも原因だが、なにより裁判官の絶対数が少ない。

 検察官の数が少なければ、本来出来る起訴も出来なくなる。良い例が麻原裁判だ。あまりにも罪状が多すぎて、検察の数が足らず、起訴まで持ち込めなかった案件がいくつもあったという。すなわち、本来裁かれるべき案件も裁くことが出来ず、社会正義(正義と云う言葉がキライな人は、秩序、と置き換えても可)を守り維持することが出来ない。

 弁護士の数が少なければ、我々は訴訟を起こすのが難しくなる。特に弁護士は、東京など都心部への集中が激しく、逆に地方には無医村ならぬ無弁護士地域が数多くあると言う。日本弁護士会は、その解消のために補助金を出して弁護士を地方に派遣する制度を始めたが、まだまだ不充分だ。

 現在の日本の法曹人口は、裁判官、検察官、弁護士を合わせて、20000人もいない。法曹人一人当たり国民数は10000人近い。アメリカでは、弁護士だけで100万人以上いるという。ヨーロッパでも、法曹人一人当たり国民数は1000人以下だ。
 答申では、この人数を2018年までに50000人とすることを目標としているが、それでもまだまだ少ないと言わざるを得ない。このペースでは、国民に身近な司法の達成には、まだまだかなりの年月を必要とするだろう。

 無論、答申の方針自体は正しい。しかし、急激に増えることによる法曹人の質の低下などを招かないよう、単なる人数だけの『』の充実ではなく『』も充実するように努めるべきだろう。その点で、(答申にある)養成施設としての法科大学院の設立、充実が重要なところだ。

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(3)裁判員制
 これは、裁判の判決に民間人の意見を反映させよう、というシステムだ。民間人が判決をくだすアメリカ型の陪審員制ではなく、あくまで民間人の意見を反映さえるヨーロッパ型の参審制に近い。というか、参審制と中身は変わらないんだけど呼び方だけ『裁判員制』と代えている感がある。

 この裁判員という制度、国民(有権者)の中から無作為に抽出した裁判員候補者(どうやら出頭義務を負うらしい:笑)が、重大な刑事裁判について裁判官と供に審理し、その判決まで責任をもって裁判に付き合う、ってものらしい。

 んで、思いつく限りのメリットとデメリット。

メリット
・裁判に『一般市民的感覚』を取り入れることが出来る。いわゆる『法律エリート』による、判例主義や法文偏重の、庶民感覚とはかけ離れた判決の出る可能性が少ない。
・裁判官と裁判員が同等のレベルで審理することで、多面的な判断が出来る。
・司法に庶民が参加することにより、国民の司法への意識が高まる

デメリット
・『庶民が同じ庶民を裁く』ことに対する一般人の罪悪感。特に、『重大な刑事事件』について裁判員制を取り入れようとしてるわけだから、場合によっては死刑判決もくださなきゃならない。『自分の判断で一人の人間を死に至らしめる』ことに、はたして庶民は耐えられるのか?
・司法の素人が審理に参加するわけだから、その裁判員の社会性、正義感の方向、感情に判決が大きく左右される危険性がある。
・裁判中の、裁判員の通常の仕事への保障

 いや、もっともっとメリットもデメリットもあるんだろうけど(笑)。

 ワシは、アメリカの『陪審員制』にはかなり批判的だ。先に例に挙げたタバコ会社への逆ギレ訴訟の例を見るまでも無く、陪審員制は『個人に優しく企業に厳しい』制度になりつつある。陪審員が裁判官以上の権限を有することで、あまりにも庶民に偏った判決、つまりは被告である会社や団体の側に多額の賠償金の支払命令が出て、それを払いきれない企業が潰れる例が少なくない。これも、理念としての陪審員制はきちんとしたものだが、それを運用する人間があまりにも偏っているがために引き起こされているものだ。

 その点で、欧米の参審制を模した今回の『裁判員制』は、庶民が司法に参加する方法としては比較的マシな方法論だと思う。ただ、最大の問題は、日本人にこういった制度が根付くか、ということだ。

 日本人は、欧米に比べ権利意識と義務意識が低いと言われている。欧米と違って、日本人は『民主主義』という理念を、勝ち取ったのではなく与えられた。その民主主義という枠の中で何をすべきかが分からないまま、ただ『個人の権利』『自由主義』という言葉だけが一人歩きして、義務も権利も果たそうとはしない国民性になってしまった。そもそも、風土的に日本人は権利意識が少ないというのに、である。

 政治にすら参加しようとしない国民が、果たしてより手間のかかる司法に参加するのだろうか? そのあたりの、そもそもの国民の意識を高める努力をすることが、司法のみならず、健全な社会の育成に必要不可欠だろう。


 ついでに、今回の答申からはちょっとずれるんだけど(多少は関わるんだけど)、どうしてもここで話しておきたい、『死刑』の話し。

 死刑制度。あなたは存続に賛成ですか、反対ですか?

 ワシの結論からいうと、死刑に代わる極刑、すなわち終身刑が制定されなければ、極刑として存続させるべき、と考えている。この終身刑では、例えどんなに模範囚でも、どんなに反省の色が濃くても、自然死するまで絶対に刑務所からは出さない、とする必要がある。ただし、冤罪の危惧を減らすために、再審請求は出来ても良いと思う。

 意外と勘違いしている人が多いので一応補足しておくけど、日本で死刑の次に重い刑罰である『無期懲役』と、『終身刑』との間には、天地ほどの開きがある。無期懲役、ってのは、期限を定めない懲役、ってことで、例え凶悪な殺人犯であっても、刑務所内で模範囚であったりすると、十何年で出てこられたり、七年くらいで仮出所出来たりする。

 死刑という刑罰は、特に欧米では野蛮な刑として忌まれていて、実際死刑制度の無い国も多い。日本に死刑があるのは、『死を以って罪を償う』という『切腹』の精神がまだまだ風俗的に残っているからではあるまいか、とは思うが、やはり、抑止力としての『死刑』という制度は必要だと思う。もし死刑を廃したければ、冒頭にも言ったけどそれにかわる極刑が必要になる。

 ところで、死刑は受ける側にも大変な制度だが、それを言い渡す側にも大変な苦痛を伴う。裁判官の中は、自分の言葉一つで一人の人間に『死』を宣告することを、思い悩んでいるものもいると言う。
 いわんや、その死刑を執行する人は・・・・・・まぁ、そこまでいくと司法の話しではないから置いておくが。

 さて、この決断が、重要な刑事事件に導入されるであろう『裁判員』制の登場で、一般の庶民が下さねばならない時期が近づいてきた。もしかしたら、あなたが『死刑』判決を、誰かに下さなければいけない時が来るかも知れない、ってことだ。

 裁判員制の導入は、この死刑制度の問題に直結してくる。やはりワシは、どのような凶悪な犯罪者であれ、例えこないだの池田小学校に乱入して未来ある子供達の命を奪った非人道の極みである宅間守容疑者に対してでも、死刑を言い渡すことには躊躇いを感じてしまう。一庶民としては極刑を望むけど、仮に自分がその裁判に関したとき、自分の一言で、他人を殺してしまう、というプレッシャーは想像以上のものになると思う。

 おかしな言い方だが、死刑は確実にワシら庶民の周りに近づいている。司法の義務とも言うべき『裁判員制』が身近に迫っている今、この問題は、国民一人一人も、司法制度を改革しようとしているお歴々も、目を逸らすことの出来ない位置まできているはずだ。

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