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コトノハPublicログ2001年5月

2001年5月4日 まつりごと 〜靖国参拝と政教分離と軍国主義〜
2001年5月20日 教育改革より教師改革
2001年5月25日 国会論戦

2001年5月4日 まつりごと 〜靖国参拝と政教分離と軍国主義〜

日本国憲法第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 日本には、信教の自由がある。信教の自由とは「公共の福祉に反しない限り、どのような信仰を持っても構わないし、信仰を持たなくても構わない」というものだ。また、日本には政教分離の原則がある。政教分離とは「いかなる宗教的思想も政治に影響を与えてはならない」というものだ。

 なんでこんな条項が憲法に制定されているか、というのは、中学高校で習ったと思う。つまりは基本的人権として全ての人に信教、あるいは思想の自由がある。しかしその「信教」ってものを、政治に持ち込んではイケナイ。なぜって、近代民主主義政治は特定の思想(イデオロギー)を追い求めるものではなく、より広範囲(公共の福祉)のためにあるのだから。ということだ。この近代民主主義の原則は正しい。民主主義自体がイデオロギーである、というパラドックスを除けば、だけどね。

 では、新しい政権ができ、また8月15日になるたびに話題に上る、政治家の靖国神社への公式参拝、ってのは、政教分離に反しているのだろうか?というと、ワシは全然そうは思わない。

 まず、少なくとも政治家個人は「信教の自由」を持っている。これは基本的人権だから当然。政治家の「個人」参拝に関しては、誰も何の文句も言えないだろう。

 そして、先の戦争で犠牲になった人を、公僕として参拝するのが、政治の宗教行事になるかといえば、それは無理がありすぎるだろう。国の起こした戦争で犠牲になった人たちを、国の人が参拝して鎮めるのは、日本の文化を顧みても、世界的に見ても、おかしなことじゃない。

 別に戦争に限らず、今の日本という国の繁栄を作ってきた人たち、その礎となった人たちに敬意を払うのは、当然のことだと思う。大東亜戦争(太平洋戦争)は、日本にとってもアジア諸国にとっても、とても哀しく、残念な出来事だった。だったらその犠牲者たちは軽んじてもいいか、といったら、絶対にそんな事はないと思う。というより、戦争という哀しいことだからこそ、後の世代がその犠牲に、より敬意を払い、繰り返さないように自覚するべきだと思う。
 先祖の御霊を参って鎮めるのは、日本古来の文化。誰だって、信仰がなくても墓参りはするのと一緒。靖国神社だってそれと同じだと思うんだよね。

 世界的に見たとき。なにかというとワシの嫌いなアメリカを例に挙げるのもどうかと思うけど、
●「キリスト教」という宗教概念が実質的に支配しているアメリカでも、
●信教の自由は基本的人権として認められている。
●とはいえ大統領は就任の時に神に宣誓するし、
●裁判のときは聖書に手を起き偽証しないことを神に宣誓する。
●また、アメリカ大統領は就任すれば、当然のように「国のため」に犠牲になった戦死兵の墓を参る。
それでも、アメリカの政治は政教分離(宗教団体によるロビー活動は当然あるけど)。

 対外的なもの、ってのもワシは杞憂だと思う。近隣の反日国家、具体的には中国と韓国と、それを意識した日本のサヨクマスゴミ&文化人が「靖国神社への政治家への公式参拝が日本の軍国主義復活に結びつく」みたいなことを言うけれど、それって余りにも飛躍し過ぎだろう。墓参りと戦争が結びつくとは思えない
 諸外国の感情に配慮、ってのもどうかと思う。あたしゃ日本人として、広島と長崎に原爆を落としたミッションの関係者と、それを企図したアメリカ政府&軍部の要人は絶対に許せない。でも、その人のまつられているところに行くな、とは言えない。墓参りするなとは言えない。だって、それって全然別の問題じゃないですか。

 靖国の問題、ってのは、政教分離にも、軍国主義に結び付けられるが、ワシはもっとシンプルにこう思うんだよね。さっきから再三言っている通りなんだけど、

 これって墓参りじゃん

〜〜〜余談〜〜〜余談〜〜〜余談〜〜〜

 余談だけど、ここで、ちょっとだけ歴史の話しをしたい。
 そもそも、政治の『』とは、日本(&中国)では「まつりごと」というくらいで、古代、政治とは『』であった。『祭政一致』という単語があるのもその流れだ。『逆説の日本史』(井沢元彦著・小学館刊)に詳しいが、古代の日本で政治を司っていた『天皇』の最大の仕事は、神に天下の平定を祈ることだった。また、なんらかの凶事があればそれを鎮め賜う為に祈り、あるいは国のために戦い死んでいったものの魂を鎮める為に祈った。『祭』とはその儀式のことであり、『政』を「まつりごと」と読む所以と言われている。それを今の世の中に当てはめる気はないが、日本の政治文化は「まつりごと」であり、神に祈ることであった、ということは、日本人に生まれ、日本文化を語るにあたって、知っておくべきことだと思う。

 もひとつ、余談だけどさ〜。どうしても腹の立つこと。
 サヨクの人たちはよく「世界の全ての人の命は平等」という。では彼らは、何故にあんなに大東亜戦争(太平洋戦争)の犠牲者を軽んじる発言をするのか。その自分たちの矛盾に気付いてはいないのだろうか?わかっていて無視しているのだろうか?

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2001年5月20日 教育改革より教師改革

 平成14年度から、学習指導要綱が改定される。その欠陥はあちこちで叩かれている通りで、ゆとり教育の御旗の元に、学習内容の大幅削減、授業時間の減少など、どうにも日本の知的レベルを下げようとしている勢力があるような気がしてならない。と同時に、確かに文部科学省やら政府やらの言う出来る子はほおっておいても出来るのだから、各人の自主性を重んじるための基礎教育の強化という御題目も、わからんではない。ワシは、新指導要綱には反対の立場だが、それは授業内容の簡素化によってピラミッドの裾野が狭くなってしまうんじゃないか、ってことを気にしているから。義務教育のレベルでより多くのことを学ばせることが、高等教育で優秀な人材を輩出するための礎だと思っているから、その礎が削られるのはどうなんじゃろ?と思うわけで。

 また、総理大臣の諮問機関らしい教育改革審議会では、奉仕の義務化などで物議を醸してたりもする。ワシは奉仕の義務化には賛成だ。今の教育現場、それくらいのてこ入れはやっても良いと思ってるし、奉仕って良いことだと思うもん。ワシに言わせれば、教育の現場での奉仕は、強制とかそんなんではなく、まさに教育の一環だろうと思う。でも、これって間違いなく現代日本(特に都市部)には根付かないだろうな、ってのもわかるから、実際の導入は難しいだろうなぁ。相変わらず共○党に牛耳られその思想から抜け出せない日○組では、教師のボイコットなんかも出るだろう。こういう人たちは、奉仕の内容ではなく、概念に対するアレルギーだから何を言っても無駄。制度の良し悪しではなく、お上から強制されることへのアレルギーだもんな。あ、奉仕の導入が徴兵制に繋がる、ってのは、それこそ現代日本では飛躍し過ぎの「反対のための反対」論理でしかないから却下ね。その危険性への警鐘はありだけどね。

 で、今日話題にしたいのはその現場の教師たち。実はここまでは余談(笑)。

 どんなに制度を整えようと、ゆとり教育を方針にしようと、現場の教師が変わらなければ今の教育のマイナス面は決して変わることはない。ジョッキに注ごうが湯呑に注ごうが、中身が毒汁であるなら、飲めば死んでしまうんだ。

 何を今更、って言われそうだけど、やはり最近の報道にみる問題教師や、ドキュメンタリーなどに取り上げられる「無気力教師」などを見ていると、言わずにはいられないんだよう。報道が取り上げるのは表層部分だけであり、一面でしかないから、多くの教師は子供の為を思って、一生懸命頑張っているんだろうとは思う。あるいは思いたい。

 確かに、家庭教育にも問題はあるだろう。制度自体の疲弊もある。でも、現在の教育のマイナス面は、やはり教師に最たる原因がある。逆に言えば、それを認めなければ真の教育改革は為し得ないと思う。

 教師とはやはり聖職者であり、『師』であるべきだと思う。教え子に尊敬されるような人でないと、教師とは言えないと思う。「教師も人間だ」それももちろん。でも、少なくとも、自分の教え子、つまり『弟子』の前では、人であるよりも先に『師』であってほしい。

 教師をやっている人のどのくらいが、そこまでの覚悟を持っているのだろう?正直な話し、老若男女を問わず、えっ、ホントにこんな人が教師なの?という疑問を抱く時もある。ワシの友人にも、教師免状を持っている、あるいはとろうと勉強している人は多いが、しかし、その中の何割かは、やはり教師としての適正に問題ありなのでは?という人はいる。(他の分野での適正はあるのだろうけど)

 別に、現場の教師だけに重責を担わせる気はない。ワシら、社会の大人一人一人が『教師』となり、(少なくとも子供の前では)子供の規範にならなきゃいかんと思う。大人になってしまうと、教育機関で働いていない人は、なかなか教育のことは考えない。自分の子供がいる人ですら、学校教育は「学校のこと」と考えているふうらしい。でもさ、考えてみてよ。

 ワシらが老いて力がなくなったとき、この社会を支えているのはその子供たちなんだよ。

 教育、って、誰にとっても身近な問題なんだと思う。ワシら一人一人がその自覚と覚悟を持って、現場の教師はそれ以上の自覚と覚悟を持って、教育っていうファクターに真正面から取り組んで欲しいと思う。

 ・・・・・・な〜んて、公序良俗に抵触していると噂のワシが言っても説得力ないのかしら???(笑)

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2001年5月25日 国会論戦

 今、国会が面白い。

 なんてことは今日びのニュースショーでは連日言われていたことだし、国会中継の視聴率がそれを如実に物語っている。平均で漏り政権時代の2倍〜3倍、最高では15%に達しなんという調査結果もあるとか。

 ワシは仕事柄、昼間家で作業していることが多いので、国会中継はよく見ている。そして思うのは、やはり漏り政権時代と小泉政権の国会論戦は、明らかな様変わりをしているな、ということ。マスゴミでも何でも無い、実際に見ている一視聴者としても、その違いは明確だ。

 まずは政権側。幾度も書いてるけど、とにかくこの内閣、メディア映えする。ついついヤキモチを焼いた漏りさんが余計な口を挟んでしまうくらい、前政権に比べてメディア受けが良い。『見た目が良い』『発言がはっきりしていて分かり易い』『喋り方が巧い』『ユーモアがある』など、とにかくマスゴミ受け、すなわち国民受けする要素に満ち満ちている。

 対照的なのは野党。まず多いのは、小泉総理&小泉政権へのへつらい。これは見苦しい。これが多いのは、政権与党の公明、保守党だけど、なかには民主党議員もいる。う〜ん、なんのための野党なんだか。。。あたしゃ、小泉政権がいかな高支持率であろうと、野党にはその政策へのアンチテーゼを示しつづけて欲しい。そうでないと、民主主義のバランスが取れない。

 ところが、存外このアンチテーゼ、ってやつが厄介で・・・・・・。

 野党の、もう一つ不甲斐無い点なんだけど、政権側の答弁が変わったのに、それを追求する野党側の論戦術が変わっていない、ということだ。それは、旧来の野党の得意ワザ。すなわち政策論争ではなく、揚げ足取り。野党は、あいも変わらず『アンチテーゼとしての政策』を提示するではなく、政権への『批判のための批判』『揚げ足取り』に終始している。特にヒドイのは、やはり社民党と共産党。おまーら、もう国会議員ヤメロや。

 野党がこんな体たらくだと、いつまでたっても日本に二大政党制はおとずれないし、政権交代、も夢のまた夢だろう。政策も無いまま『反痔眠』で結集して、日本を混乱に落とし入れた『細川内閣』の罪を忘れてはならない。あの政権交代は、政治論として、つまり、『政権交代をした』それ自体は意味のあるもんだったけど、実際の政治の上では全然意味がなかった。

 今、国会は政策論争という本来の機能を回復しつつある。国会も、国民の目も明らかに変わりつつある。そのことに気付かない政党、議員は、徐々に淘汰されていくだろうし、淘汰されなくてはならない。「国会は国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関」 その意味合いを、国民も国会議員も理解しなおすべき時期に来ている。

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